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「百丈」は中国唐代の禅僧、百丈懐海(ひゃくじょうえかい)(720年-814年)からとったものです。この僧は、当時としては珍しく、特定の信者の経済援助や、国家権力の保護に頼らず、自ら耕し、自ら食うという自立精神を護持しました。店主は、そんな百丈懐海の生き方に共感し、屋号を百丈としました。 その店の顔ともいうべき「のれん」。百丈の自慢の「のれん」も開店から雨の日も風の日もがんばってくれています。店主の熱い意気込みを背負いつつ、百丈の顔としてお客様を呼び込んだり、ごあいさつしたり…本当にご苦労様です。百丈の真の看板娘「のれん」にご注目ください! 梠布(しなふ)又はマダ布(ぬの)と呼ばれています。新潟県や山形県の山に自生する梠の木の皮をはいで土の中で腐蝕させ繊維のみを取り出し乾燥した後、織ったものです。 |
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中国の有名な文化人 ちょうもうふ が元の時代、1303年に書いた「急就篇」(きゅうしゅうへん)より採字させていただいたものです。 ちょうもうふ は1254年に生まれ1322年、69才で亡くなりました。宋代の王室の遠い親せきでしたが、蒙古により南宋が滅亡(1279年)後フビライによって元朝の高官にとりあげられ、北京で活躍した方でした。一方「東方見聞録」の筆者、マルコ・ポーロは1274年より18年間、西域人としてフビライに重用されていたので、ひょっとすると ちょうもうふ と北京で会っていたかもしれません。それから時は流れ、およそ700年後の1986年、当時、商社マンであった店主はフビライにではなく、社命により、北京で単身、駐在生活を送っていました。そのころ書店で買い求めた中国書道の教本、三希堂帖復刊に、この ちょうもうふ の「急就篇」が載っておりました。書人として ちょうもうふ は王義之が目標でその伝統を守ろうと復古主義に終始したそうです。700年以上も前の字ですが、簡素で魅力があると思いませんか? のれんの生みの親は藍染作家の栗橋幸子さんという方です。栃木県氏家町に工房を持ち、日夜熱心に制作活動にはげんでおられます。 |
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